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マッサージルーム

 終電など1時間も前になくなっていることなんて分かっていた。ただとにかく外に出たくて会社から飛び出した。
 毎日働いて、はたらいて。
 お客様に喜んでいただける営業になりたいです!と面接官の前で元気いっぱいに言った2年前、仕事の電話がこんなに心をえぐるものだとは思っていなかった。
 朝晩休日、お構いなしに攻めてくるひっきりなしの電話。あの、前触れもなく尻のポケットの中が震える感触。低く響くバイブ音。取ったら取ったでひどい罵声だ。
 喜んでもらおうとしていた「お客様」は、神様というよりむしろヒステリックな王様だった。暴君。
 すぐに出なければ死ねと言われる。深夜でもクレームが入れば呼び出される。おっさん、おれはおまえの彼氏か?
 営業という仕事を平然とこなせる人間を、おれは尊敬する。と、いうよりも、おれが不適合なのかもしれない。
 とにかくこんな仕事についてしまった自分は不幸だ。こんな性分に生まれてしまった自分は不幸だ。
 不幸だと思っているだけでどうすることもできない自分は、不幸だ。
 2日も会社の椅子で寝たので、もうどうしようもなく肩が重い。首が重い。腰が重い。足が重い。背中が重い。頭に、血が行っていない気がする。
 マッサージにでも行きたいな。唐突に思う。修正を頼まれていた報告書もメールで送ったし、さすがに今日は電話はかかってこないだろう。というよりもかかってこないでくれ、もう体力が限界値だ。願いつつおれはマッサージに行くことに決める。夜遅くでも、やっているところはあるだろう。

 安くて良さそうな店を探すのさえ面倒だった。揉んでくれるなら何でもいいや。と、看板があった小さな雑居ビルに入った。
 壁が黄ばんで古そうなエレベータで3階に上がる。入り口のドアを開けるとちりんちりんと鈴の音がさみしく響いた。
 薄暗い受付には誰もいなかった。変なところに入っちまったかな実は風俗店なのではなかろうか。違うところを探そうか。と思っているとおんなが1人奥から現れた。
 いらしゃいませー、少し不自然な発音。日本人ではないらしい。着ている白い制服のスカートは短めだが、それが似合うほど若くもなさそうだった。化粧っ気もない、地味なおんなだ。
 あの、マッサージお願いします。おれは言ってから少しあわてる。いかがわしいものではない普通のマッサージをお願いしたい。
 すわってください。おんなは合皮がところどころ破れビニールテープで補修してあるソファを指さした。
 素直に座るとパウチされたメニュー表らしきものをこちらに渡し、なんぷんこーすにいたしますか、と聞いてきた。表には施術時間と料金が簡単に書いてある。表を裏返すと、足裏のツボの図があった。
 ごくごく一般的なマッサージの店のようだ。びくついて損した。120分コースでお願いします。おれは一番長いものを指さした。
 最近は途中で電話がかかってこないか気になり、時間をある程度拘束されることは避けていた。学生時代には趣味だった映画にも行くのがこわい。三部作の映画、最後だけ見てないなあ。休日も、会社にいるか、もしくは家でひっそりといつ鳴るか分からない電話に戦々恐々としている。
 だけど、たまにならいいだろう。こんな仕事の奴隷にだって、ほんの2時間のマッサージくらいなら許してほしい。疲れているんだ。体中が重いんだ。料金なんてどうだっていい。徹底的にほぐされたかった。
 先ほどおんなが現れた奥の部屋に通される。中はベッドが4台置いてあった。それぞれカーテンで仕切られているが、客は誰もいない。
 おんなはその中の一つに入るよう促し、ベッドの下からプラスチックの安そうなかごを出して言う。うえだけぬいでここいれてください。べるともとってください。ぬいだらここにうつぷせにねてください。じゅんびできたらこえかけてね。
 おんなが出て行ったのでのろのろと服を脱ぎ、ベッドにうつぶせた。
 ちょうど顔の場所に穴があいているベッドだった。顔を穴にはめると白い床以外は見えなくなる。息はしやすいが少々頬のあたりが圧迫され、今床のほうからおれの顔を見たらきっと面白い顔になっているだろうと思う。
 おんなを呼ぶと待ち構えていたかのようにすぐ入ってきた。
 つらいところどこですか。背中の辺りからおんなの声が聞こえる。全身です。そう答えた。はあいとおんなは分かったのか分からないのかあいまいな返事をした。
 何やらごそごそとやったあと、背中になにか冷たいものが塗られた。突然のことでおお。と間抜けな声を出してしまう。
 それではいまからはじめます。おんなの手のひらが背中をすべり出した。先ほど背中に塗られたのはオイルだかクリームのたぐいだったらしい。手はなめらかに、それでいて力強く背の上を動く。指はツボをしっかり押さえ、ほぐしてくる。
 マッサージ、上手いぞ、このおんな。思わずよだれが垂れそうになり、口を閉じた。
 少しだけまだ電話がかかってこないか気になる。胃が、酸っぱい気がする。おれは目をつむってぼんやりと考えた。
 マッサージすらろくに受けられない。自分の好きなこともできない。
 ただただ会社と取引先のために働く毎日で、生きていると言えるのだろうか。それとも仕事を仕事として割り切れず、自分の生活にまで食い込ませてしまう自分の気の持ちようが悪いのか。
 おれは隣のとなりの席の先輩を思う。今はもっと大きな担当を持っているが、以前はおれと同じ取引先を担当していた。その時も今さえも、先輩は定時に帰り、仕事を持ち帰らない。夏休みも有給を使い10日は休む。そのくせ仕事はきっちりできて、取引先からも好かれている。
 怒られたら、頭下げればいいだけの話だろ。いちいち引きずらないでさ。もっと要領良くやらないと続けていけないよ。そう言う先輩はおれよりもたった4年しか長く生きていない。だけど、4年後におれが先輩のようになれているとは、とてもじゃないが思えない。
 ふいにおんなの拳が足の裏を押しさすった。一瞬くすぐったくて爆笑しそうになったあとひどく痛くなり、さらには心地よくなった。ツボを正確に押されている、気がする。 両手でふくらはぎに圧力をかけられる。手が下から上へ上へ上がっていくのに合わせ、足が軽くなっていく。
 次第に、眠っているのか起きているのかわからないような状態になってきた。考えが論理立たなくなってきた。いろいろな思いが、とりとめなく、つながりもなく、浮かんでは消えてゆく。
 二の腕あたりを両手で締めたりゆるめたりされる。神経に直接触れられているようだ。伸ばされたおれの指の先は自分の意思とは関わらず、おんなの動きと合わせて動いた。その指の先が、かすかにおんなの太ももに触れたことが分かる。
 腋の下をぐりぐりと押される。小さい頃兄に抑え付けられさんざん腋をくすぐられたことを思い出した。あのときは笑いすぎて息が出来なくなるくらい苦しく、笑い続けながらも本気で泣き怒った。それなのに今はまったくくすぐったさを感じない。この後の体の回復を期待できそうな重さとだるさを感じるだけだ。
 と、おれの耳は低いうなりのようなものをとらえた気がする。携帯のバイブ音だ。ふわふわと思考と夢と現実を漂うような状態から一気に100パーセントの現実に引き戻されてしまう。すぐに嫌な気分になった。
 気のせい、な、はずだった。気のせい、だと、思いたい。
 時々同じようなことがある。満員電車の中。会議中。眠る前。ああ携帯がなった、呼び出しだ、と泡を食って携帯を取り出す。しかし実際は誰からも、着信もメールさえ来ていない。時にはポケットの中で携帯が小刻みに震えている感覚すらするのに。
 だからきっと今回も同じだ。電話なんてかかってきていないはず。大丈夫だ。大丈夫だ。
 胃の内側に直接冷たい氷を押し付けられているような思いを紛らわそうと、大丈夫だと心の中で繰り返しおんなの按摩行為に集中した。
 電話なんて、そんなに気にしなきゃいいのに。学生時代の同期に言われたのを思い出した。おれだってかかってくるけど取れない時あるよ。あとで時間空いてるときかけなおせばいいだろ。
 この間、同じサークルだった他の同期連中と、一泊二日で旅行に行く話が持ち上がった。
 仕事が忙しいから、電話がかかってくるからと断るおれに奴はそう言ったのだった。
 奴も営業をしているが、休日はフットサル三昧の楽しい生活を送っている。でも、電話取らなかったら相手が迷惑するだろ。おれが言うと首をかしげた。迷惑なんてお互い様なんじゃあないの。休みの日や夜中、自分の時間取られるわけだし。
 自分のことばかり考えている不真面目な奴だ、それで会社に迷惑をかけたらどうするんだろう、おれにはできないと思った。
 だけれどきっと奴の方が人生何倍も楽しい。そしてけして全力ではなく、70パーセントくらいの力でだろうけれど、仕事も続けてゆけるだろう。とも思った。
 おれはどうなんだろう。おれはこの先やっていけるのか。このさき何十年も、こんな状態を続けてゆくのか。

  いったん目覚めてしまいしかもそんなことを考えだしたものだからもう起きたままかも知れないな、と思ったのもつかの間。おんなの指はやすやすとおれを先ほどと同じ夢うつつの状態に持っていった。
 背中にまたがられ足を上へ引っ張られる。いててて、と声が出る直前に元の位置に戻されフォローされるように筋をさすられると痛みは散れていくように消えていった。
 両肩を前から掴まれて、親指を使って強く揉まれた。今度はおんなの胸が頭に当たっていた。特に気にしている風でもなく、おんなはおれの肩をほぐす。おれもすぐに気にならなくなる。自分よりも小さくやせているおんなのどこからこんな力が出ているのだろうと思うほど力強い。しかし、痛すぎずにちょうどよく刺激してくる。肩がどんどん軽くなる。
 仰向けにさせられて鎖骨の下あたりを円を描くように押される。引っ張られるせいか肩が楽になる。頭にタオルをかけられて後頭部を強くつかまれ十本の指でじわじわと頭頂部へ向かい揉まれながら引っ張られる。首の筋が伸び、全身の力が抜けた。
 しばらくおれの体のさまざまなところをほぐして、おんなは手を止めた。あとじゅっぷんですがたりないところはありますか。おれは軽く肩を動かす。背中を。そう言った。あんなに揉まれたというのにまだ肩甲骨のまわりあたりに凝りが残っているようだった。背中を、お願いします。
 おんなはおれの腰にまたがった。体重をかけ強く背中を押してくる。ううっと鼻から息が漏れる。何度かその強い摩擦を繰り返したあと両手の親指だけで一点一点ツボを押された。
 肩甲骨のすぐ内側あたりを集中的に押される。気持ちがいい。なるほどここを押せば楽になるのか、しかしながら自分ではなかなか届きにくい場所だ、それに自分で押してもいまいち効果がないような気がする。自分よりも他人のほうが自分の体をうまく扱えるなんて不思議だ。
 とかなんとか思っている間にいつの間にかおんなの指がおれの体の深いところに入っていた。骨と筋肉との間をかいくぐり、奥へ奥へ入ってくる。いったい、皮はどうなっているのだろう。ぼんやりと考えている間にも指は入る。
 不意にその指で肉を掴まれ引っ張られた。肉はどんどん引っ張られ体の外に出てしまう。どうなっているのか分からない。両方の背中あたりからにゅうと肉が伸びている自分の姿を想像したらようやく怖さも生まれてきて肩に力が入る。
 りらっくすしてくださいりらっくす。 おんなは言いおれから引き出した肉を揉みはじめる。はて、これは肉なのだろうか。よく分からない。ただ揉まれていると、さてはここが凝りのおおもとだったのではないか、と思うほど体が軽くなってくる。これがほぐれたら、おれは開放される気がする。
 すこしすとれっちね。言っておんなは肉を曲げ伸ばし始めた。普段使っていない筋肉を使ったときのように痛く気持ちがいい。ほとんど夢見心地になる。考えがいよいよまとまらなくなる。
 体がらくだ。体がかるい。飛べそうだ。寝台からいくぶんか浮いている気がする。
 そうかおんなが引き出した部分はひょっとしたら翼なのではなかろうか。きっとそうだ。そうにきまってる。あはは。そりゃあここちいいはずだ。おんなを腰の上に乗せ翼を操られ天馬のごとく個室を飛びまわるおれ。滑稽で愉快で、ここちいい。

 ピピピピピと耳慣れない音が頭上で聞こえたのに驚いて目を開けた。同時に口からよだれがたれる。気づけば床はよだれで小さな水溜りになっていた。
 おんなは手を止めおれの体から降りた。ピピピ音が止まる。ああストップウォッチか、120分、経ったのか。ぼんやりと思った。
 おんながおれの背中をポンポンポンとリズミカルに叩き出す。それは次第に激しくなり、ポカポカポカと音が立った。おんなは最後に強めに3回叩き、これでおわりです。と濡れたタオルで雑に背中を拭いたようだった。
 まだいまいちはっきりしない頭でゆっくり起き上がる。らくになりましたか。おんなが言うのではあ。と生返事をした。おんなはかすかに笑い、のみものよういしますゆっくりきがえてくださいねと個室を出て行った。
 おれは肩を回し、背中に手をやってみた。タオルで拭ききれなかった油分が少し残ってぬるぬるしているが、他は普段となにも変わらない。
 さっきのはなんだったのか。不思議な現実か、それとも疲れのあまり見た夢か、はたまたゴッドハンドが見せたまぼろしか。とにもかくにも体は楽になった。全身を包んでいた重さが、なくなっていた。

 おんなが出してくれたぬるくて少し変わった味のする茶を飲んでから店を出た。電車がないのでタクシーを止める。座席に座ってようやく、携帯電話の存在を思い出した。鞄から出してみると1件留守電が入っていた。気のせいではなかったらしい。
 一瞬胃が縮むような気がした。背筋がひえびえとした。しかし、なんとなく、今日はもう電話はいいや。そう思った。この心地よいぼんやり感を保ったまま、寝てしまいたかった。
 今日はもういいや。留守電聞くのも明日でいいや。おそろしい伝言が残されているかもしれないし、明日もぎゃあぎゃあ言われるかもしれない。朝一で呼び出されるかもしれない。
 でも、今日はとりあえず、いいや。寝てしまおう。
 おれは少し冷たい指先で電話の電源を切り、鞄の奥底にしまった。運転手に家までのだいたいの道を伝え、近くまで来たら起こしてください、言ったあと座席にもたれて足をのばす。怯える気持ちはうまいこと、眠気と虚脱感で紛らわせそうだった。
 うつろう外の景色を眺めていると、自然にまぶたが落ちてきた。
 寝よう。寝ちゃえ。おやすみなさい。